2025年6月27日金曜日

妙高高原(1)いもり池湿原

 梅雨に入ったと思ったらすぐに真夏のような暑さになり、涼しいところに行きたいと思い、上越の「妙高高原」に行った。下図は途中の「北陸自動車道」の「越中境」パーキングから見えた風景で、奥に見えるのは「ヒスイ」で有名な朝日町付近の日本海で、海の向こうに見える陸は「能登半島」だろう。340年ほど前に。この辺りも松尾芭蕉が「奥の細道」で歩いていて、俳句を残していて句碑が立っている。



















国道8号線の向こうには、海に近いのでバンガローがいくつか建っている。


















ヒスイの勾玉を表しているのか。


















この後、「信越自動車道」の「中郷」インターを降りて、「妙高高原」の「いもり池」に行った。

「妙高高原」にはいくつかの湿原地帯がある。「いもり池」はそのうちの一つで、GWの頃は水芭蕉が咲き乱れるという。真正面に見える高い「妙高山」である。


















ここの池には、外来の温帯性スイレンと浮き草が池を覆っている。この池の周囲には一周30分ほどの遊歩道があり、自然の中をのんびり歩いてきたが気持ちの良いものだ。


















ちょうど「都すだれ」(?)が目いっぱいに咲いていた。



















また、ちょうど初夏の花「キショウブ」と「杜若」(?)がきれいに咲いていた。


















この池と雄大な妙高の山々の風景は絶景であり、山の下側の方にはスキー場の芝生が所々見える。「妙高杉ノ原」は冬季に金沢から直行便の「スキーバス」がよく出ていた。




















「いもり池」と木曽義仲の関連の案内板があった。木曽義仲が平氏の指示で動いた越後国守の城氏と戦っている。城氏は関川から千曲川沿いの川中島で義仲に敗れた。
























池のほとりに1本の茎から可憐な白い花が咲いていた。
























こちらは小さな朱色の実がいっぱい付いていた。こういう多くの植物を見ていると心がなごむんでくる。


















池の向こう側の建物は「ビジターセンター」で、「妙高高原」の地形の成り立ちやここの動植物などの紹介がされている。本やグッズも販売されている。


















野尻湖付近から見つかったナウマンゾウの下あごの奥歯の化石


















これも野尻湖付近から見つかった「ヤベオオツノジカ」の下あごの骨の化石



















北アルプスにいる天然記念物の「雷鳥」の複製


















宿泊先の部屋から見えた残雪の残る「妙高山」

2025年6月22日日曜日

末森城跡(2)末森合戦と第九師団

 末森城跡(1)の続きで「末森合戦」では、他にもエピソードがある。この合戦には女性の奮闘もあった。奥村家福の妻安は、末森籠城軍の中にあって、普段の物静かさから一変して長刀を手に城内を見回り、粥や酒を配って「明日は金沢から利家公が必ず駆けてきますから、私どもはわずか一夜を守りぬけばよいのです。今宵一夜頑張ってください」と兵を鼓舞し続けたという。

















末森城が佐々成正の軍に囲まれた知らせが金沢の利家に届いた。秀吉から金沢城を動くなと足止めされていた利家は秀吉に背いて援軍に駆け付けようか迷っていた。その時、まつは「今日の出陣は前田家にとって大事な戦です。もし末森城を敵に奪われてしまったら討ち死にしてください」と決断が付かない利家を叱咤激励したということである。















末守城の戦いで利家が着用し、恩賞として奥村家福に与えたものだといわれている。末森の戦いを描いた絵の中で利家が必ずこの甲冑を着用して登場している。























現在の宝達志水町には南から「大海川」「前田川」「宝達川」「相見川」の4本の大きな河川がある。これが加賀と能登の間に立ちはだかる壁であった。橋がかかる現在と違って、川が溢れると物流や軍人はもちろん、人の往来も不可能となる。特に「宝達川」は川底が周囲より高い「天井川」であった。このことから加賀から能登に向かう人は洪水を避け、宝達山の麓まで迂回して末森城の真下を通り、能登に向かう分岐点の宿(しゅく)に出ることになった。

幕末の1854(嘉永7)年に郷土史家の森田柿園が写した「能登国末森城図」




















佐々成政に囲まれた末森城を救うため前田利家が後詰した際、桜井三郎左衛門は佐々軍の備えを避けるよう誘導し勝利に貢献した。利家は金沢へ帰途三郎左衛門宅の立ち寄りに、褒美として高松村は地子銀を免除された。この地子銀免除は明治8年の地租改正まで続いた。
桜井三郎左衛門翁像が「高松産業文化センター前」に立っている。
























先日の「金沢学」で、石川県の近代歴史学の第一人者である「本康先生」の講座を聞いたが「末森合戦の前田家」と「第九師団」について話された。
「末森合戦」は、440年前の戦いで実際に戦場で何があったのかの厳密な検証が必要であるが、この戦いで加越能の支配を固めた前田家にとっては劇的な勝利であったことは間違いないだろう。戦いの記憶は「上書き」が絶えず繰り返され、私たちが抱いている「末森合戦」のイメージは、当事者の加賀藩祖前田利家の時代から、一定に記憶が堆積し続けて、醸成された。この記憶は明治維新後にさらにベクトルを得ていったのではないか可能性があるという。
14代藩主前田慶寧は、歴史編纂事業として、金沢城内に「家禄方」をおいて史料集めに乗り出し、前田家先祖代々の偉業と臣民の功労を顕彰することにあった。
一夜で終わった「末森合戦」は「加賀百万石」の礎を築いた前田家における「関ケ原」と称されている。

前田15代当主俊嗣の命で末森合戦をテーマとした「末守赴延画巻」が描かれた。
末守城大手門での戦いの様子「末森合戦絵巻」

この「末守合戦」に新たな意義を見出したのが、陸軍であった。戦国時代の合戦を「戦史」という形で評価した。戦国合戦のイメージに強い影響を与えたのは、陸紛参謀本部がまとめた「日本戦史」だという。
「奇襲を駆使した攻撃作戦」「小兵力をもって大兵力を打ち破る」といった奇襲・奇策・新戦術こそが日本人の戦い方だという。とりわけこの「日本戦史」を踏襲したのが「日露戦争」である。ロシアと戦った陸軍は、終始兵力不足・弾薬不足に苦しんだ。「寡をもって衆をうつ」戦いこそ、日本の「戦国以来の伝統」という解釈がなされた。そもそも陸軍が「日本戦史」を編纂した目的は、ドイツ軍を範に過去の合戦を戦術教育に「教材」とする目的があった。


















ところで教材があるからには「批判的研究」もなされ、薩摩藩出身の「川上操六」は教育的価値を重んじていたため、戦国時代の合戦についても「批判的研究」に重きを置いていた。
ところが川上は病気により他界した。
代わって戦史編纂を引き継いだのが「山県有朋」を頂点とする長州閥だった。戦史編集は「批判的研究」を許さないようになる。これにより戦史での失策は覆い隠されるようになる。これがのちの日本の陸軍の伝統になっていく。


















日露戦争といえば、陸軍第九師団は、旅順・奉天の攻撃でその名をあげた部隊である。同師団は乃木希典指揮下の第3軍に編成され、旅順の総攻撃に参加、その後の満州戦線にも赴いた。
陸軍第九師団が描いた「第九師館内古戦史集録」を読み取ると、一つには「攻撃の利」があり「利家が常に攻撃を取り、以って佐々軍の弱点に乗じたるに依る」二つには、指揮官の決心は当然硬く縛るべし。「利家一度金沢を発するや、何人も言い寄ることなく、攻撃をもって終始したる決心」とある。このような文章が9項目にわたって描かれている。




















九師団戦史の評価は、その後の末守合戦の定評と一致している。
九師団は、古戦史によりながら、軍事的「教訓」や将兵にに伝えるべき「姿勢」を強調している。
近代における戦史の記述も、今日に至る「末守合戦」のイメージ(記憶)を形作った要素の一つと言えるのではないかと結論付けている。
「奇襲・奇策・新戦術」「寡をもって衆をうつ」を日本人の戦い方と位置付けた「日本戦史」の特色は軍人ばかりでなく国民にも一定の戦略戦思想」を植え付けることになった。こうした「戦史思想」の積み重ね、特に陸軍エリート層への教育効果が、太平洋戦争末期の無謀ともいえる戦略・戦術を生み、大本営発表に代表される「失敗を認めない体質」を形作ったのであろうということである。

2025年6月17日火曜日

末森城跡(1)

今回は、加賀百万石の礎を築くきっかけとなった「末森合戦」の場所となった「末森城跡」に行った。加越能三国の国境付近で、現在の宝達志水町のほぼ中央にある末森山は標高140mくらい(卯辰山とほぼ同じ標高)の低い山である山城跡である。



















この付近に来たが、どこから「末森城跡」に上がるのか、なかなか見つからなくて畑をやっていた人から聞いて、ようやく「案内板」が見つかった。近所の人からは「その道は最近人が通らなく、クマが出るかもしれない」と言われてしまった。



















案内板に描いてあるどおりにに向かいの道を通り、すぐに下に国道が走る橋を渡ると「末森城跡」の看板が掲げられていた。


















橋を渡ると「末森山古戦場」の石碑が建っていた。これは平成14年のNHk大河ドラマ「利家とまつ」の放映を機に加賀百万石の礎を築くことのなったこの合戦の意義を世に知らせるために建てたことが刻まれていた。


















少し歩くと「末森城跡鳥瞰図」が描かれた説明板があった。山の上には「本丸」「二の丸」「若宮丸」などの戦闘にに備えた施設、その周辺には「馬掛場」「若宮」「武家屋敷」など普段生活する施設が置かれていた。末森城の周辺には「末守町」「加治屋町」「表町」など城下町を連想できる地名が描かれている。その横にクマを捕獲するための大きな檻が置かれていた。

さらに奥に行くと道の両側は鬱蒼と木々が生えていた。


















周りを見渡すとと奥があまり見えないところになってきて、クマが出るかもしれないと驚かせられたので約10分くらい歩いたところで、不安になり引き返すことにした。残念ながら「本丸」の場所まで行けなかった。


















ここの歴史は、15,6世紀あたりから活動の後があるが、文献では1577(天正5)年8月の「上杉謙信」書状に「末守」が確認できるのが最初だという。その後、織田信長に仕えた土肥親真が羽咋郡の行政の中心として、城下町も整備された。親真の死後、前田家の城となり加越能国境の要衝に位置する軍事拠点であり、戦国末期において羽咋郡域の中心地として機能していた。
天正11年の賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破り、天下人を目指す羽柴秀吉に織田信雄と徳川家康が対抗したのが天正12年3月に始まる小牧・長久手の戦いである。この戦いで前田利家は羽柴方に、佐々成政は織田・徳川方について戦った。同年9月に佐々成政は、前田利家の領国である加賀・能登の分断を図るため。末森城を急襲する。

成政は、越中から宝達山系を超えて末森城に近い坪井山に本陣を張って攻撃した。末森城の城主は奥村家福である。奥村家は尾張の小豪族であった前田家に代々使える家柄であった。元々末森城は能登守護である畠山氏の南を守る支城で、上杉謙信の攻撃にあい、陥落後の末守城には謙信が越中から伴った土肥氏が入った。その後、上杉勢力が能登から撤退すると、織田信長に臣従し、羽咋郡の支配を認められた。その甥の土肥氏と奥村氏、千秋氏と合わせて1500人の兵で守っていたが、成政は8000人の兵であった。土肥氏が出撃して戦死したため、家福は金沢の利家に急を告げた。「人は一代、名は末代。大切な家臣を見殺しにしては、たとえ天下をとっても、人々の誹りを受ける」と利家は家臣たちの慎重論を押し切り、弟の秀次が守る津幡城で松任の利勝と合流して、3500人の兵で夜中に北上し、途中佐々方の待ち伏せがあるという知らせに、街道を避けて浜伝いに進み、11日の朝今浜に着いた。利家の救援に力を得た籠城兵も反撃し、佐々軍は大混乱となり後退した。

















将奥村家福(永福)らの徹底抗戦と利家の素早い救援により、成政は撤退することになった。
この戦いの功績で、後に利家は秀吉政権内での地位を向上させ、前田氏が加賀・能登・越中三か国を領有する道が開かれた。「末森合戦」が加賀百万石の礎を築くきっかけとなった合戦と言われている。

2025年6月11日水曜日

富樫バラ園 2025

 今回は、家の近くにある「バラ園」に久しぶりに行ってきた。ちょっと最盛期を過ぎたかもしれないが、まだまだきれいに咲いていた。

ここは、約170品種、計18000本のバラが春と秋の2回見事に咲く。



















最近もこの付近の道を何度も通り過ぎるが、いつも横目で見ていて、ゆっくり見たいと思っていた。



















昨年にはもうここの開園40周年だというから、私が近くに引っ越ししてきた以前からあることになる。


















開園40周年記念植栽品種の「ここねいる」は、ころんとした抱え咲き中台輪で、四季咲きの花で細枝にも花が咲く。花色はアカプリッコ基調で中央が濃く、咲き進んで中央から白みを帯びていく。
































世界バラ会連合が選出する「殿堂入りのバラ」18品種のうち8品種が野のバラ園にある。
世界バラ会連合が選出する「殿堂入りのバラ」18品種のうち8品種が、今バラ園なる。
そのうちの一つで「ピース」は、クリームイエロー桃色の覆輪がのりボリュームがある。世界でもっとも有名で愛されているバラで、花名は第二次世界大戦後、平和への願いを込められて付けられた。
























これも「殿堂入りのバラ」のバラの「アイスバーグ」は「氷山」を意味する純白の名花である。とげが少なく、香りは微香。耐病性が強く育てやすい。




































「クイーンエリザベス」も「殿堂入りのバラ」のバラ


















「ダブルデライト」はクリーム色と赤花が美しいバラで、芳香はフルーティー。花名は、花の美しさと素晴らしい香り「二重の喜び」という意味だそうだ。


















「ブルームーン」は、優しく感じる薄紫色の美しいバラで、長きに愛されているバラである。フレッシュでスパイスな香りとともに、とげがなく枝は長く伸び、数輪の房になることもある。


















「聖火」は、白と紅色のコントラストがきれいで、大ぶりな花を咲かせるので、満開時には迫力がある。


















ユーロビアナ


















「プリンセスアイコ」は、最近テレビによく出ている「愛子親王殿下」の誕生を祝して名付けられた。桃色の花弁に、検弁高芯咲きの花形も優雅な印象である。


















「プリンセスミチコ」は、他に類を見ない濃いオレンジの花弁で、気品さと華麗さ中輪系のを兼ね備えた名花である。イギリスの育種家から、当時皇太子妃だった美智子上皇妃に献上された。


















「モナリザ」は、オレンジとピンクが混じり合った鮮やかな色彩のバラである。