東京(3)品川神社①の続きで、さらに境内には多くのものが置かれている。
社務所横にある「手水鉢」には、珍しく河童の像があり、水難除け、無病息災を願うカッパだそうだ。そして上の板には葵紋と祭事の神輿の様子が描かれた絵馬が掲げられている。徳川家から崇拝を受けていたことが分かる。
東京(3)品川神社①の続きで、さらに境内には多くのものが置かれている。
社務所横にある「手水鉢」には、珍しく河童の像があり、水難除け、無病息災を願うカッパだそうだ。そして上の板には葵紋と祭事の神輿の様子が描かれた絵馬が掲げられている。徳川家から崇拝を受けていたことが分かる。
東京(2)北品川商店街の続きで、その後歩いていくと「第一京浜」の大通りに出る。この通りの向かい側の森の中に「品川神社」が見える。
今からおよそ800年程前の平安時代末期の文治3年(1187)に、源頼朝公が安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座 洲崎神社)の天比理乃咩命を当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。
やがて、鎌倉時代末期の元応元年(1319)に二階堂道蘊公が「宇賀之売命(お稲荷様)」を、さらに室町時代中期の文明10年(1478)に太田道灌公が「素盞嗚尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。
慶長5年(1600)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当社へ参拝し戦勝を祈願され、その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗の面)・神輿(葵神輿)などを奉納されました。
また、寛永14年(1637)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され当社がその鎮守と定められ、「御修覆所(神社の建物の再建・修復などは全て幕府が賄う)」となり、元禄7年(1694)・嘉永3年(1850)の二度の社殿の焼失の際には時の将軍の命により再建が行われる等、徳川将軍家の庇護を受けました。
時代は明治に移り、同元年(1868)11月には明治天皇様が新都・東京の安寧と国家の繁栄を御祈願されるために、当社を含んだ都内の十の神社を「准勅祭神社」と定められ、御勅使が御参拝になられ御祈願をされました。
大東亜戦争の折は、当社は幸いにして戦火を免れましたが、社殿の老朽化が進み、昭和39年(1964)氏子各位の御協力により現在の社殿が再建されました。
そして、令和2年(2020)に天皇陛下の御即位を奉祝し、「御大典記念事業」として、御社殿の修復を行いました。(品川神社HPより)
東京(1)の続きでその後、一緒に行った妻が以前住んだいた近所の親しくしていた人と会い、駅前のカフェで現況とこの辺りの変わりようなどついて話を楽しんだ。そしてその後その人と、今まで私はあまり行かなかった「品川駅南口」を歩いた。
私たちがいたころは駅北口の前にデーンと建っていた「パシフィックホテル」が壊されている最中だった。今後ここは「リニア新幹線」の施設になると言っていた。
続いて、品川駅もすっかり変わったが、下の写真は駅構内の様子で、朝の東京のテレビに毎日のように出ているところだと言っていた。
旧八ッ山橋を渡ると「北品川商店街」に入る。ここに「東海道品川宿まち歩きマップ」の案内板が掲げられていた。ここは東海道53次の最初の宿場町として繁栄し、勝手は数多くの旅籠が並んでいたという品川宿があった所である。京急の北品川駅から青物横丁駅にかけてがその中心で、目黒川をはさんで北品川宿と南品川宿に分かれていた。
今は、江戸時代と同じ道幅の旧東海道に沿って商店街のび、往時をしのばせる古社寺や史跡もあちこちに残っていて、歴史散歩が楽しみな雰囲気の通りである。この道路は中央の車道が狭く、両側の歩道が割と広いが、車がすれ違う時は歩道にはみ出さざるを得ないが、それとも一方通行なのか、あとで気になった。
今回は、コロナ禍の旅行自粛も緩まり、10月末ごろに3年ぶりくらいで東京に行った。
品川付近に約10年間くらい住んだので、久しぶりに東京の空気を吸いたかったのと、当時の近所の人と久しぶりに会うため、品川周辺がどいう風に変わったか見たいと思い出かけた。
まず、五反田駅付近で知り合いにあった後、そこから5,6分で歩いて行ける池田山にある「ねむの木公園」に行った。実はこの庭は上皇后美智子様がご成婚までを過ごされた、正田邸の跡地である。
約200坪の庭園には、約60種類の草花、50本の樹木が植えられている。池田山の閑静な雰囲気に溶け込んだ、ほっと心が和むお庭だという。