尾崎神社(2)境内の続きで、次に拝殿・幣殿、本殿の中を昨年11月に見たので紹介する。
屋根は入母屋造り銅瓦葺で、正面が向拝と据破風で、その他の桟方向は入母屋造りである。軒瓦の文様は、軒平は唐草、軒丸は三巴紋である。
屋根下の垂木は二重に細かくでており、両側に縦横の格子状に蔀戸が組み込まれている。両開きの桟唐戸には唐花と唐花の透かし彫り、そして金属の徳川家の葵の御紋が付いている。
尾崎神社(2)境内の続きで、次に拝殿・幣殿、本殿の中を昨年11月に見たので紹介する。
屋根は入母屋造り銅瓦葺で、正面が向拝と据破風で、その他の桟方向は入母屋造りである。軒瓦の文様は、軒平は唐草、軒丸は三巴紋である。
屋根下の垂木は二重に細かくでており、両側に縦横の格子状に蔀戸が組み込まれている。両開きの桟唐戸には唐花と唐花の透かし彫り、そして金属の徳川家の葵の御紋が付いている。
尾崎神社(1)藩政期の御宮の続きで、城内の北の丸から「甚右衛門坂」をおりる。この坂は、天正8年に佐久間盛政が金沢御堂を攻めた際に、本願寺方の浪士の平野甚右衛門がこの坂で奮戦し、壮絶な討ち死にをしたことからその名が付いたという。
下図の写真は2月ごろに撮ったものである。
「甚右衛門坂」の下周辺には、伴天連屋敷(宣教師屋敷)が集まっていて、丹波国守護代の内藤如安や宇喜田秀家に仕えてた宇喜田休関など、高山右近を頼って金沢に来たキリシタン武将や加賀藩士は集まっていたと案内板に描かれていた。
この惣門は、江戸時代の北の丸にあった「惣門」や「随身門」と違い、八脚門であり様式が違うので、明治時代後になってから建てられたものであろう。右側に大きな「尾崎神社」の標柱が建っている。
拝殿前の「狛犬」も頭に雪がこんもり載っている。
「尾崎神社」は、もと金沢城内北の丸にあった「金沢東照宮」、「御宮」と呼ばれた由緒ある神社である。「金沢東照宮」は、1643(寛永20)年に創建されたが、廃藩置県後の1874(明治7)年に「尾崎神社」に改称された。尾崎の名の由来は、山の尾(小立野台地)先端(崎)の位置することから名付けられたという。
1640(寛永17)年に4代藩主前田光高が幕府に願いでたところ、2代将軍徳川秀忠の外孫であるという血縁を理由に、幕府は東照宮勧請の認可をした。金澤東照宮の別当寺である常照院は、同年寛永寺(日光東照宮創建に尽くした天海の創設)内に置いた支院で150石の寺領を寄進して創設された。寛永18年から幕府の木原杢じょうが設計を行い、加賀の大工清水助九郎らが施工にあたり完成し、1643(寛永20)年にご神体を東叡山から迎え社殿を竣工した。前田家の勧請は全国の外様大名に影響を与え、以降約600の東照宮が全国に誕生したといわれる。
廃藩以降は金沢城内が陸軍省管轄となっため、明治11年に御算用場跡地の現在地に移転した。現在祭神は天照大神・源朝臣家康、菅原朝臣利常の三体となっている。
藩政期には城内の「北の丸」にあり、甚右衛門坂から上がって、坂の上を左に曲がって、二の丸に入る「土橋門」の前を通り、「新丸」に下りるまでの道の左側の敷地にあった。金沢城内の「御宮」といわれた。
「よみがえる金沢城」より
現在、ここは城内関係者の駐車場になっている。
下図は「加賀国金沢之絵図」の「御宮」部分で、寛文8年~延宝7年のものである。藩主が参詣に来たときは、三人の藩士がお供し、「総門」で馬を降り中に入ったという。また、城下の町民たちは東照宮を参詣することは可能であったが、城内ということで庶民の参詣時間が制限され、特別な祭礼もなかったという。(赤線がルートコース)
館内の2階には、歴代の手回しばかりの有名な蓄音機が7,8台並べられていて、ここで当時のレコードと当時の蓄音機で、その音色を聞き比べる催しをやっていた。蓄音機やレコードなど説明員がいてその特徴を分かりやすく聞くことができた。その音色はさまざまであるが、どれもよい音色に聞こえ、説明員からどれがよいかといわれてもよく分からなかった。
蓄音機は雑音が聞こえるが、演奏者が目の前にいるような臨場感とぬくもりが感じられ、今のCDとは違う懐かしさが感じられる。
こちらはスピーカ部分がラッパ型の木製で、扉を開くと出てくる。
今回は、尾張町にある「 金沢蓄音器館」に久しぶりに行ってきた。ここはレンガ風の建物で、向かいにある昭和初期の近代建築で有名な「三田商店」と同じで、角に玄関がある洒落た建物である。
音の出る仕組みをわかりやすく描かれていた。
ターンテーブルを回すのに、電気のない時代は「ゼンマイ」を使っていた。私らの子供時代の動く玩具はほとんど「ゼンマイ」式だったろう。あのねじを回して「ゼンマイ」のエネルギーを蓄えてから動かしていたのが懐かしく思う。
1930(昭和5)年、アメリカ「コロンビア」製の卓上型蓄音機