いしかわ四高記念公園から鼠多門(1)の続きで、「お城通り」を歩くと「鼠多門橋と櫓」に出るが、ここは次回にまた説明するとして、尾山神社の裏の「唐門」をくぐった。
2020年10月29日木曜日
いしかわ四高記念公園から鼠多門(2)金谷神社 鼠多門続櫓台石垣
初代だけでなく、その後の藩主・当主と夫人までご祭神となっており、さらに金谷神社内には百万石まつりご祭神を乗せてねり歩く立派な神輿も安置されている。
この玉垣の前に「さし石」(力石)というものが置かれていた。旧藩主前田家より拝領されたもので、古くより若者たちが力持ちを競った時に使われたものであるという。また、この石を触ると健康になると言われていて多くの人が触って健康を祈願している。
「さし石」や「前田家ヨリ拝領石」などと石に刻まれていた。尾山神社の神門付近ではこれから結婚式に出るカップルであろうか、参列者も後ろに並んで歩いていた。
鼠多門続櫓台から見る「鼠多門」で、見る角度が違うと雰囲気も違う。
2020年10月25日日曜日
いしかわ四高記念公園から鼠多門(1)
今回は天気も良く「いしかわ四高記念公園」から「鼠多門」方面に歩いた。以前は「中央公園」といっていたが、私はそちらの方が馴染みがある。10年ほど前には「フードピアランド」で大きな炉の前でビールを飲みながら焼き牡蠣がおいしかったのを思い出す。
ここは旧四高時代には校舎やグランドがあった。その前の藩政期には「明倫堂」などの藩校があった所で、学都金沢のさきがけとなった場所である。その前には、あの「加賀騒動」の中心人物の「大槻伝蔵」の屋敷がここにあったことがあると聞いている。
作られた大きな滝の横には石垣もあったが、いかにも江戸時代の古い石垣のようにも見えるが、昔はなかったような気がする。
「しいのき迎賓館」との間の道路には、今が見ごろの「アメリカ楓道り」には、素晴らしい紅葉の風景が見える。
2020年10月19日月曜日
蕎麦 宮川
今回は近くに用事があり、そのついでに家のものが前から食べたいといっていた別所町にある「蕎麦 宮川」へ行った。
11時半開店で10分くらい前に着いたが、すでに何人かが待っていて、順番の名前を書いた。
待っている間、辺りを散歩した。まず近くに直売の野菜や工芸品を売っている店に立ち寄った。ここでは、以前にこのブログでも紹介した私の以前のテニス仲間の人がやっている「パン屋」があるが、不定期の土日だけやっているようで、今日は残念ながら会えなかった。
周りには竹林が多く、GW近くにはタケノコの販売や料理などで賑う所である。今は木々がすこし紅葉し始めている。
周りにはピンクの花が咲いていてきれいだ。
ようやく店が開いて、名前を呼ばれたので店内に入ると、お仏壇や床の間が付いている部屋に案内され、ゆったりしたテーブル席に着いた。
しばらくするとお待ちかねの蕎麦と天ぷらが出てきた。「宮川」の蕎麦は挽きたての薫り高い十割蕎麦でかなり細い。宗田節やサバ節などからとる出汁がきいたつゆに絡んで旨味がより深く感じる。天ぷらは、海老の他は野菜やキノコ類で多くの種類があり、うまく並んで立ててあった。
蕎麦も天ぷらも非常においしく、私には量が多すぎたのか、かなり腹いっぱいになった。。また、最後の蕎麦湯もおいしく頂いた。たまには、こういう山間の場所で食べるのもいいものだ。
2020年10月15日木曜日
2020年秋 大乗寺丘陵公園の花木
今回は、時々散歩にっ行っている「大乗寺丘陵公園」の10月中旬の花木を写したので紹介する。(10月10日)
小さな赤い実と紫の実がなっていた。
小さなピンクや濃い青の花が緑の葉っぱの中に見える。
「キリンソウ」
ここの公園も少しづつ紅葉が始まっていて、少しづつ色づいてきた。
2020年10月11日日曜日
如来寺(2)
如来寺(1)の続きで、鐘楼の前には、兼六園の山崎山にもある「蓮華灯篭」と七福神の一つの「福禄寿」(?)の石造物が置かれていた。
本堂横の奥に入ると「如来寺石造物群」が置かれた場所があった。平成になってから境内の道路の再舗装にあたり、古い石板に代えて、新しい石板に代えた。その際、古い石板を利用して地蔵尊を作り、人々の福祉を祈願することとなった。
如来寺住職吉田氏の指示により門徒が競って地蔵菩薩を自らの手で小刀や鑿を巧みに使って作成し、寺へ奉納した。
これが如来寺の地蔵群で、ひとつひとつに作者の願いが込められている。上は赤戸室で、下の写真は青戸室で作られた地蔵尊であろうか?
石仏は開眼供養され、万人の祈りの対象として如来寺墓地に安置され歴代和尚によって末代回向供養される。
一つ一つの地蔵尊の顔も違い、面白い顔のものもある。そういえば私の以前のテニス仲間もここで地蔵尊を何か月かかかって作ったことを聞いたことがある。
広い墓地には多くのお墓が並んでいた。
赤戸室で作られたお墓の「久徳尚則」は14代藩主慶寧の近習で尊王攘夷論を説いた。元治元年の「禁門の変」で藩の尊王攘夷派が弾圧されたとき、尚徳は能登島に流刑となった。妹の「筆」は慶寧の側室となり、前田家15代当主利嗣の生母である。
「吉田長淑の墓」があるが、長淑(1779~1824)は加賀藩が江戸で登用した我が国初の蘭方内科医で、文政7年にかなざわで麻疹を発症した12代藩主斉広の治療のため、金沢へ急行するも無理と過労が重なり到着後まもなく没した。